その他

幼少期から形成されるフェティシズム

とぎれとぎれの記憶ですが、思い返すと幼少期は、
同じ年代の子供たちと仲良くするのが怖かったり、
母から離される恐怖で『せんせいのへや』から出られない子供でした。

保育園に行くのが嫌で、お腹が痛いと嘘をついてトイレにこもったり、
嘘をつくだけならまだしも、わざと擦り傷ができるようにしてコンクリートで擦って怪我をして見せたり、
立ちごぎのブランコから飛び降りて怪我をしてみたり。

全ては怪我をした可哀そうな自分、
体調が悪い可哀そうな自分を両親に可愛がってほしかった行動なのだと思います。

友達が多く、体をよく壊してみんなに心配される兄という存在に対する「コンプレックス」が原因なんだろうと今ではわかります。
寂しいからなのか、幻覚をつくりだして見ていた時もありました。
実際にはないお花畑で遊んでいたり、ベッドの下には私にしか見えない首だけのお友達がいました。

大人になって知りましたが上記に書いた行動は
「ミュンヒハウゼン症候群」という精神疾患のひとつで、簡単に言ってしまえばうそつきなかまってちゃん。

それは幼稚園にあがり友達ができるようになってからおさまり、
兄の受験の時期にまた少し出ていたように思います。

そんな昔のことは忘れていましたが、
今になって思うのはこの頃から、フェティシズムは形成されていたのではないかと思います。
そして幼少期から思春期に移り変わり、性についてアンテナが伸びると、
少しずついろんな情報を目にしたり聴いて成長していく中に、幼少期の経験とつながるパーツを発見していく、
それがフェティシズムの誕生につながったのではないかと。

私が繋いだパーツは、偶然テレビで流れた、綺麗な女の人が男の人に倒され首を絞められているシーンでした。
そこには子供の私には分からなかったエロスと愛憎がありました。
自分の中で性が目覚めるのが分かったのです。

私は大人になると恋愛において、幼少期にもっていた「可哀そうな自分を可愛がってもらいたい」という感情をパートナーに見出していました。

愛される為に可哀そうな自分になる為には、パートナーに痛み、傷、苦しさを求める。
愛されるためには?愛を感じるためには?息が止まりそうなその瞬間を与えてほしい。

全部、幼少期から始まっていたのです。
フェティシズムは幼少に求めていたものへの回帰なのかもしれません。


 

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