瘋癲ノ喜多サン

喜多征一物語(訃報そして誕生)

最初の一年こそ週3ぐらいで通っていたのですが、事業も順調で上海にまで店を出したりバリに工場を作ったり海外進出もし、飲食店や美容室の経営も始めたりしてかなり忙しくなりまして、4年目を迎えるころには、月に一回ぐらいしか通えなくなってました。もともと心臓があまりよくない先生も寝込みがちになり道場は閑散として来てました。
バリの工場に一カ月ほど滞在して帰国してすぐに道場に向かいました。いつものように富さんがにこやかに出てきて、道場に入りました。小さな仏壇がひとつ、そしてあろうことか先生の遺影が、いい顔をした私が出会う前の先生でした。話を聞くと私がバリに行く前に寄った3日後に救急車で運ばれたのですが心筋梗塞で亡くなられたとのことでした。私は悲しみより感謝の気持ちがいっぱいで涙が出ました。すると富さんが一冊のノートを持ってきまして、先生が「もし私(先生)が死んだら、この人達に兄ちゃん(私の本名も知らないので先生はいつもこう呼んでいました)から電話を入れさせて欲しい」とずいぶん前からいっていたとノートを見せてくれました。そこには、8人の女性の名前と連絡先が書いてありました。



富さんは事務的に、「先生は男娼縄師で女性をお伽する縄師でここに書いてある方は、タニマチでお客さんです。生前から何かあったら兄ちゃんに行かせてくれと、いってたんですよ」なにがなんだかよくわからなかったのですが「わかりました」と答えました。男娼縄師とはなんぞやということを詳しく聞き、なんて素晴らしい文化なんだと思いました。是非やりたいと、そして先生が私に継げといって頂けたこと、縄の技術も女性への対応、触れ方も合格点を頂けていたことがなによりも嬉しかったです。富さんが矢継ぎ早に、「名前が必要ですよ、男娼縄師は本名では駄目です。先生は名和を継がせることも嫌がってましたからねぇ」確かに縄師で名和はいただけない、私もそれはちょっと嫌でしたのでほっとしました。「では、下の名前を頂きまして、征参(せいざん)を使わせてもらます」というと富さんが「先生が爾(じ)だから参ですか、それは嫌ですね征一にしましょう」ここで苗字です。あれやこれや考えていたとのきに、玄関に飾ってある喜多玲子の縛り画が目に入りました。喜多玲子は、縄師、美濃村晃の画家のときの変名なのです。先生はどうやら若い頃美濃村晃と交流があったらしく、喜多玲子の原画をもらったのか、買わされたのかとにかく玄関に飾ってあったのです。
「喜多征一これでいきましょう」「いい名前ね」という経緯で男娼縄師 喜多征一は誕生したのでした。



先生は、男娼縄師で人気があり全盛期にはタニマチが20人ほどいたとのことです。最近では、タニマチも亡くなったりして、先生も高齢でフットワークも悪くなっていましたので、ノートに書いてある8人になっていたとのことでした。ゲスな私は富さんに「先生は下の方は現役だったのですか?」と尋ねました。「ええ多分そうだと思いますよ、亡くなる1カ月前にもお客さんをとってましたから、ただお相手もご高齢なので添い寝だけかもしれませんけどね」(そうなんですお伽というのは、単純に性交をするだけではないのです。話を聞いたり話したりしながら添い寝をして朝を迎えることも多々あるのです)なるほど益々素晴らしい日本文化と思いました。そして自分のゲス加減に嫌気がしました。



ノートには、名前(もちろん偽名です)と携帯番号、今までお伽をした旅館、ホテルの名前が書いてありました。携帯電話が普及する前には手紙で私書箱を利用してたそうです、なんとも風情があり淫靡な世界でしょうか。
先生が使ってみえた携帯電話で後日8人の方連絡をして、先生の訃報と変わって弟子の喜多がお伽をさせて頂きますという連絡をしましたら、半分の4人の方が高齢を理由にご辞退されて男娼縄師喜多征一は、4人のタニマチのもと誕生したのでした。

つづく

前の話を読む【喜多征一物語 逝かせ縄修行】

キュレーター紹介

逝かせ縄という妙技を操り、多くの女性を快楽の果てと誘う。東京と名古屋に道場を持ち、日本古来の文化である美しい緊縛を多くの生徒に伝承している。美しくなければ緊縛ではない美しい緊縛は気持ちがいい、それは肉体と精神と性が解放されることだ。

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