瘋癲ノ喜多サン

小暮修的な生き方

矢吹ジョーに憧れた。

小暮修に憧れた。

中原中也に憧れた。

ジム・モリソンに憧れた。

ポール・ゴーギャンに憧れた。

けれど、

伊達直人には憧れなかった。

藤堂俊介にも憧れなかった。

太宰治にも、

ジョン・レノンにも、

フィンセント・ファン・ゴッホにも、

なぜか憧れなかった。

似ているようで、私の中ではまるで違う。

悲劇の人が好きなわけではない。

破滅した人が好きなわけでもない。

偉人が好きなわけでもない。

ましてや、社会に認められた立派な人物になりたいと思ったこともない。

私が惹かれてきたのは、もう少し半端な男たちだった。

正義の味方ではない。

聖人でもない。

世の中を変えようなどという大義もない。

少し不良で、

少し孤独で、

どこか投げやりで、

それでも妙に色気がある。

そういう男だ。

矢吹ジョーは世界を救わない。

自分の拳ひとつで、自分がどこまで行けるのかを確かめているだけだ。

中原中也も、人類を導こうとはしない。

酒を飲み、恋に傷つき、自分のどうにもならない感情を詩にした。

ジム・モリソンにも、優等生の匂いがない。

舞台の上で危うく揺れている。

明日には消えてしまいそうだから、目が離せない。

ゴーギャンだって、立派な夫でも父親でもなかった。

社会人として見れば、かなり困った男だったのだろう。

だが、そんなものを全部振り切って、自分が見たい色を追いかけてしまった。

私は昔から、そういう人間に弱い。

欠点があるから好きなのではない。

欠点を隠さず、それでも生きている姿に色気を感じるのだ。

人間というものは、あまり完成すると面白くなくなる。

正しい。

優しい。

責任感がある。

誰からも尊敬される。

もちろん立派なことだ。

しかし、立派さと色気は、ときどき相性が悪い。

少しくらい傷があった方がいい。

少しくらい嘘があってもいい。

過去を聞けば、眉をひそめるようなことの一つや二つあってもいい。

大事なのは、そこにその人間だけの匂いがあるかどうかだ。

私は昔から、いい人になりたいと思ったことがない。

悪い人になりたいわけでもない。

ただ、つまらない人間にはなりたくなかった。

常識に従い、

年齢相応に落ち着き、

人から後ろ指をさされないように生き、

老後の安心だけを考える。

そんな人生を否定する気はない。

ただ私には、少し窮屈だ。

六十を過ぎた今でもそう思う。

むしろ若い頃より、はっきりそう思う。

人間は歳を取るほど立派にならなければいけないらしい。

丸くなり、

穏やかになり、

分別を身につけ、

欲望を捨てる。

冗談じゃない。

欲望がなくなったら、私は何を書けばいいのだ。

何を縛ればいいのだ。

何に惚れればいいのだ。

私はたぶん、最後まで少し不良でいたい。

誰かを殴ったり、迷惑をかけたりする不良ではない。

自分の欲望まで社会に預けないという意味での不良だ。

みんなが右を向いているときに、

左に何があるのか気になってしまう。

「そんなものを見ても仕方ない」

と言われるほど、

余計に見たくなる。

「その歳で」

と言われれば、

その歳だから何だと思う。

考えてみれば、私が縄を始めたのも同じなのだろう。

世間から見れば、少し怪しい。

説明すればするほど誤解される。

立派な仕事とは思われないかもしれない。

それでも、そこにしかない美しさがある。

そこにしかない人間の顔がある。

だったら私は、そちらへ行く。

昔からそうだった。

私が好きなのは、

英雄ではない。

殉教者でもない。

天才でもない。

ちょっと危なくて、

ちょっと寂しくて、

妙に女にモテそうで、

本人はそんなことを気にもしていないような男。

つまり、

セクシーなチンピラが好きなんだ。

そして結局、

私自身も、

そういう爺さんになりたいのである。

キュレーター紹介

逝かせ縄という妙技を操り、多くの女性を快楽の果てと誘う。東京と名古屋に道場を持ち、日本古来の文化である美しい緊縛を多くの生徒に伝承している。美しくなければ緊縛ではない美しい緊縛は気持ちがいい、それは肉体と精神と性が解放されることだ。
詳しいプロフィールはこちら:https://smluxury.jp/profile/

会員登録をすると
コメントを投稿する事ができます

ログインする 会員登録

コメント

この記事に対するコメントはまだありません