瘋癲ノ喜多サン

喜多征一物語(強制断捨離)

男娼縄師として、会社、家族に対して隠密行動をするのは結構大変でした。タニマチの入れ替わりもあり、平均年齢はぐんと下がってゆきました。
8年ほど経つころにはなかなかの評判で、紹介はあるものもなかなか新規の方をお伽する時間が作れずお断りをしていたのでした。裏稼業は順調でも表稼業は、外的環境や自分の問題も重なりどんどん悪化をしてゆきました。



非上場の我が社は、外貨為替差益で運転資金を捻出していましたので、リーマンショックで莫大な損失を出すことになり、尖閣諸島問題からの反日デモで上海にあった3店舗は大打撃を受け、中国現地法人の会社は倒産。国内ではファストファッション旋風が吹き荒れ、高額衣料品が主軸の弊社はどんどん売り上げを落とし、もともと百貨店中心に販売していたにもかかわらず、あんちょくに客数を獲得するためにショッピングモール等への出店に切り替えたのが最大の失敗となり、客層に合わせていたずらに品質を落とし、安価にしたため売れども売れども売り上げはあがらず、逆に昔からのお客さんには失望され上顧客がどんどん離れて行ってしましました。素人が始めた3店舗の飲食店は、5年足らずで閉店に追い込まれ、負債総額は数億円となってゆきました。



私生活でも19年連れ添った妻と離婚をし、まだ学生のふたりの子供を育てながら会社の再建に全精力を傾けましたが力及ばず。2年前に26年間経営を続けてきた会社を倒産させてしまったのです。自宅も本社ビルも車も全部なくなり、国の法律の下に強制断捨離をさせてもらいました。なにも所有せず着の身着のままの生活、正確にはなにも所有出来ずですけど。正直、とてもすっきりして、先生の意志を継承して、逝かせ縄の男娼縄師として細々と暮らしてゆこうと思いました。実はこれを一番望んでいたのでしょう。まだ下の子供が大学生でしたので、当面の生活費と今後の生活設計を相談しに社長時代に仲良くしていましたある会社の社長に会いにゆきました。この社長は、私が先生と初めてあったハプバーによく一緒に行っていた人で本業は固いのにピンク産業に見識のある方で、男娼縄師なんて古い考えでなく、もっとカジュアルにクリーンな緊縛ビジネスにしたらどうだといって、ポケットマネーで3,000万円ポンと出してくれたのでした。



名古屋に店舗兼道場のビルを借り、SMLuxuryのサイトを作り、株式会社SHIBARIを設立させてもらいました。私は自己破産者なので会社社長は出来ませんので社長は惠です。私と惠との関係を少し話しておきましょう。惠は高校生のときに私がデザインをしていたブランドに心を打たれたのでした。当時はイケイケ状態で青山にもオフィスを持ち、原宿のキャットストリートや新宿タカシマヤにも出店し、有名タレントの衣装に提供したり、顧客にも著名人をもつ自分でいうのもなんですが、カッコいいブランドだったのです。そんなカッコいいブランドのファンからそこで働きたいと思うようになり、私の会社に入ってきたのでした。倒産後に緊縛モデルに誘ったら是非やりたいということで、最終的には社長になって、私は平の縄師として使ってもらっているのです(笑)大丈夫です、経営はしっかり私がしていますのでご安心下さい。(なに、そこが一番安心出来ないとな)

つづく

前の話を読む【喜多征一物語 東奔西走】
 

キュレーター紹介

逝かせ縄という妙技を操り、多くの女性を快楽の果てと誘う。東京と名古屋に道場を持ち、日本古来の文化である美しい緊縛を多くの生徒に伝承している。美しくなければ緊縛ではない美しい緊縛は気持ちがいい、それは肉体と精神と性が解放されることだ。

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