瘋癲ノ喜多サン

ボーホースタイルという幻想

*この文章は今から15年前私がまだファッション業界にいた時に書いたものです。

ボーホースタイル
またファッション業界が洒落た言葉を生み出した。
ボヘミアンとソーホー、自由と都会、野生と洗練。
なんとも便利な融合だ。
だが、自由を語るスタイルほど、不自由なものはないのかもしれない。

流行の最前線にいる人々は、口を揃えて言う。
“自由に装え。自分らしくあれ。”
けれど、その“自由”はすでに型にはまった自由であり、
その“自分らしさ”はブランドのカタログに印刷された個性だ。

Dress Classy, Dance Cheesy
どこかで聞いたような標語が響く。
あの「カンナムスタイル」のように、
笑いながら踊る消費のパレード。
そこにあるのは、自由ではなく、演出された無秩序。
反芸術を名乗る芸術。
オルタナティブを装う既製品。
そこに私は、
薄いアイロニーを感じずにはいられない。

ボーホースタイル。
ブルジョアとボヘミアン。
この矛盾を抱いた言葉が示すのは、
結局のところどちらも欲しいという欲望の形だ。
経済的安定と精神的自由。
ロックスターのように生きたいが、リスクは負いたくない。
そんな中途半端な願いを、ファッションは見事に商品化してみせる。

だが、それでも私は思う。
たとえそれが既製の自由であっても、
そこにほんの少しの本音が混じる瞬間がある。
服を選ぶ手つきの中に、
心のどこかで“私は私でありたい”という小さな祈りが宿る。
たとえ矛盾していても、見栄でも、演出でも、
その一瞬だけは確かに“生きている”感じがするのだ。

ブランドでも、カテゴリーでもなく、
流行の波に揺れながらも、どこかで笑っている一人の人間として。
ボーホーでもなく、アンチでもなく、ただ私として。

自由とは、スタイルではなく、生き方そのものなのだから。


 

キュレーター紹介

逝かせ縄という妙技を操り、多くの女性を快楽の果てと誘う。東京と名古屋に道場を持ち、日本古来の文化である美しい緊縛を多くの生徒に伝承している。美しくなければ緊縛ではない美しい緊縛は気持ちがいい、それは肉体と精神と性が解放されることだ。

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