瘋癲ノ喜多サン

緊縛を習う(自由)

宗教の儀式とは、神に近づくためのものではない。
昨日までの自分を静かに葬り、
新しい自分として世界へ戻ってくるための営みである。

人間は、生まれてから一度も同じ人間であり続けたことはない。
それでも私たちは、自分という輪郭を守ろうとする。
肩書きをまとい、常識をまとい、理性をまとい、
他人から与えられた名前の中で安全に生きようとする。
その殻は、いつしか自分自身と見分けがつかなくなる。

緊縛とは、その静かな解体である。
縄は身体を締める。
しかし本当にほどかれていくのは身体ではない。社
会の中で器用に生き延びるために積み重ねた虚勢であり、
善人であろうとする執着であり、
傷つくことを恐れて固く閉ざした心なのである。

縄が肌に触れるたび、人は説明を失う。
なぜ震えるのか。
なぜ涙が流れるのか。
なぜ安心するのか。
その問いに理性は答えられない。
ただ身体だけが知っている。
皮膚は頭脳より古く、呼吸は言葉より深い。
生命はいつも、思考より先に真実へ触れている。
だから縄の時間には、勝つ者も負ける者もいない。

支配する者も、服従する者もいない。
あるのは、一枚ずつ古い皮膚を脱ぎ捨てながら、
自分でも知らなかった場所へ降りていく、
一人の人間の姿だけである。

私は、エロスとは快楽を求める衝動ではないと思っている。
エロスとは、自分という境界を壊そうとする生命の力である。
閉じた殻を破り、知らない自分へ踏み出そうとする危うくも美しい衝動である。

だから人は、抱き合う。涙を流す。震える。
そして、ときに縄を求める。
それは苦しみたいからではない。
快楽だけを欲しているからでもない。
いままで生きてきた自分を一度終わらせ、
もう一度、生まれ直したいという、
言葉になる以前から身体に刻まれている願いなのである。

縄がほどける瞬間、その人は元の場所へ戻る。
部屋も同じである。
窓から差し込む光も同じである。
相手の顔も変わらない。
しかし、世界はもう以前と同じではない。
ほんのわずかに呼吸が深くなり、
皮膚の感覚が澄み、
心の奥に静かな余白が生まれている。

巡礼を終えた者が故郷へ帰るように、
人は日常へ戻る。
けれど帰ってきたのは、
旅立つ前と同じ人間ではない。
私は、その小さな変容こそが緊縛の本質だと思う。
縄は人を拘束する道具ではない。
古い自分を静かに見送り、
まだ名前を持たない新しい自分を迎え入れるための境界線である。

その境界を一度でも越えた者だけが知っている。
人は自由だから生まれ変わるのではない。
すべてを委ね、自分という幻想がほどけたとき、
初めて本当の自由は静かに息を始めるのである。

 

キュレーター紹介

逝かせ縄という妙技を操り、多くの女性を快楽の果てと誘う。東京と名古屋に道場を持ち、日本古来の文化である美しい緊縛を多くの生徒に伝承している。美しくなければ緊縛ではない美しい緊縛は気持ちがいい、それは肉体と精神と性が解放されることだ。

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