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時代遅れな私の代わりに

最初に一つ、私からの問いをどうか受けてください。

「幸せ」とは、何ですか?


「あなたにとって」の幸せである必要はりません。「幸せ」が何者であるか、どうか教えて下さい。



そんな問いを繰り返して幾年月。

すっかり、「幸せなんて主観だよ」が定着したこの世界で、私はまだ普遍を探しています。 平成も終わるというのに、誰にでも、どんな時にも当てはまる「幸せ」がどこかにあると信じています。時代遅れでしょうか、そうでしょうね。


「貴方と私は違うから。」
が無上の真理であるかのように世界は囁きます。


「人の数だけ幸せはあるよ。」
と、かつての恩師は微笑みました。


確かに、それは正しいでしょう。人間は一人一人違う。だから素晴らしい。

画一的な教育をやめ一人一人の個性を伸ばしていこう。性別なんかで縛るのもやめよう。女だから?男だから?違う、我々は人類としてここにいるんだ。


かつて理想論といわれたあれこれが時代という土壌に芽を出しました。沢山の人が種を撒いて、水をやって、蹴散らされてもまた世話をして…一体どれだけの人がこの萌芽に感動していることでしょう…。


それなのに…

素直に手を叩けない私は随分なひねくれ者です。

だって、私、年齢性別出生関係なく世界に羽ばたいていきた……くないんですもの。


年齢性別出生という枠の中で、私は戦いたいのです。

法に触れなければ何でも自由…だなんて、なんだか喜劇のようではありませんか。枠の中にあるからこそ輝いていたものが、枠の外に出た途端ただの塵となって散っていくような気がしてならないのです。

そう、美しい悲劇が消える。

同性を愛しても家を焼かれないし、不倫をしても首を落とされないし、外国人と恋に落ちても何の支障もないのです。

それぞれが「幸せ」を求めて喜劇的な世界へ飛び出し自由に舞っては落ちていく。傍目からすると塵のように見えたとしても、本人はキラキラと輝いているつもりでいる…。

ぁあ、自分でも、何がこんなに気に入らないのかハッキリ言えません。

一つだけわかっているのは、極めて物理的な自由を阻む籠の戸は、間もなくほぼ完全に放たれるということです。

そして、もうすぐ籠の大きさを自分で決められる時代がやって来ます。どんなことも「主観に過ぎないよ」で議論を終わらせることが出来るようになります。



「良いことじゃないか」

と仰るでしょうか?

そうです、素晴らしいことです。どうか私の代わりに自由主義者たちに拍手を送ってください。時代遅れな私の代わりに…。










 

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