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緊縛徒然 その1 「はじめに刷り込みありき」

皆さま、こんにちは。ドク天駿です。

 

東京で、名古屋で、喜多道場に集う「ケ」のある方々、もちろん私たちは一堂に会することはありませんが、恐らくその数は増加の一途を辿っているのではないでしょうか。中でもキュレーターとして発言されている女性の方々の、先鋭的な、それでいて自然で等身大なお考えの披歴には驚くばかりです。正にいま喜多道場を牽引しているのは女性であると言えるでしょう。 それは喜多先生の絶大な引力に依るところが大きいのですが、もちろん一方で喜多道場を支えているのは、同様に引力に捕捉されている男性諸氏の存在です。

 

では何故、私は縛りたいし、あなたは縛られたいのか。

そんなことに耽っていてどうなるの?そして、これからどうなりたいの?

画一的な答えはありません。人それぞれですが、悩みつつ真摯に自分に向き合えば自ずと道は見つかると思います。

 

さて、世の中の常識からみて、私たちはアブノーマルな世界に足を踏み入れていることは間違いありません。SMという言葉さえ無いころ、それは おぞましい變態性欲の一種であり、Sは加虐性淫乱症と呼ばれ、Mは被虐性淫乱症という名が与えられて、ほとんどビョーキと思われていたのです。

 

でも、ビョーキであることは間違いないので、自らの性癖を疎ましく思い勝ちですが、逆にワクワクして高揚した気分になることもあります。もっとも、そんな気持ちになること自体が倒錯の極みであるとの誹りは免れませんが、カミングアウトするわけではないですから良いですよね。

 

では、自分が重いビョーキなのか、それとも軽いのか、知りたくなりますね。

重いビョーキは一生治らないし、軽ければ諸事多忙に紛れて忘れ去ることができ、健全な人間に戻れるかも知れません。

それを決める要因は「刷り込み」の強さにあります。

 

幼少のころを思い出してください。

何か異常な、酷い場合はトラウマにまでなっている経験、出来事はありませんでしたか?性に纏わる忌まわしい記憶のことです。

例えば父親から性的な虐待を受けていた、性行為を見てしまった、SM雑誌の緊縛写真や挿絵を見てしまった、等々です。

 

人によりますが、そのような記憶が強く脳に刷り込まれると、何か不可逆的に回路ができてしまい、それは傷のようなものなので今度は癒そうとするわけです。その癒しのための行為が緊縛です。

刷り込みを受けているなら、變態性欲の芸術的パフォーマンスである緊縛をこの喜多道場で追求していきましょう。決して癒えることは無く、煉獄から抜け出ることもできませんが、同類の皆さんと伴に思いを昇華していくことはできます。

 

緊縛つれづれ、問はず語りに吐露してまいります。

 

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