緊縛を習う(変容)
痛みと快楽は、本当に正反対なのだろうか。
私には、そうは思えない。
人間は幼い頃から、痛みは避けるもの、快楽は求めるものだと教えられる。
しかし身体は、ときに理性の教えを静かに裏切る。
痛みが感覚を澄ませ、快楽が人を眠らせることもあれば、その逆もある。
生命はいつも、善悪や快不快という単純な境界よりも、
はるかに複雑な場所で息づいている。
縄は、その曖昧な境界へ人を導く。
麻縄が肌に触れ、ゆっくりと身体を包み、圧迫が深まっていくにつれ、
意識は外の世界から少しずつ離れていく。
時計の針も、人の評価も、昨日の後悔も、明日の不安も、静かな潮のように遠ざかる。
残るのは、呼吸である。
皮膚である。
鼓動である。
ただ、この瞬間だけを生きる肉体である。
私はそこに、
古い宗教が身体によって目指した境地の名残を見る。
タントラ密教は、欲望や苦しみを敵とは考えなかった。
煩悩を焼き捨てるのではなく、その炎の中を歩き、
その熱によって自分という幻想を溶かしていく道を選んだ。
逃げるのではない。受け入れるのである。拒むのではない。見つめ続けるのである。
縄にも、それとよく似た時間が流れている。
痛みを無理に快楽へ変えようとはしない。
恐れを否定しない。
羞恥を消そうともしない。
ただ、それらが身体の中を通り過ぎていく様子を静かに見届ける。
すると不思議なことに、
痛みはもはや苦しみだけではなくなり、
快楽も単なる享楽ではなくなる。
二つは互いを侵し合い、溶け合い、やがて名前を失う。
そこでは、感じている者だけが存在している。
思考は沈黙し、自我は輪郭を失い、身体だけが世界と呼吸を合わせ始める。
人は、そのような瞬間を恍惚と呼ぶのかもしれない。
だが私には、それは快楽というより、
生命が本来の姿を思い出す静かな回帰のように思える。
文明は人間に多くの知識を与えた。
だが同時に、自分の身体を深く感じる術を忘れさせた。
痛みを排除し、欲望を管理し、
感情を均質に整えようとする世界では、
人は便利になるほど、自分自身から遠ざかっていく。
だから私は縄で縛る。
苦しめるためではない。
快楽を与えるためだけでもない。
人が自らの深層へ降り、痛みも快楽も、恐れも欲望も、
ひとつの生命の鼓動として受け入れるためである。
煩悩即菩提という言葉は、
欲望を肯定するための免罪符ではない。
人間から逃げることなく、
人間であることを最後まで引き受けよ、
という厳しくも美しい教えなのだと思う。
緊縛もまた、その一本道を静かに歩いている。
一本の縄は身体を締める。
しかし、その先でほどけていくのは肉体ではない。
長い歳月をかけて自分自身を閉じ込めてきた、
見えない内なる縄なのである。
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