瘋癲ノ喜多サン

性愛(勇気)

人は、よく深く愛するだけでは満たされない。
どれほど深く相手を抱きしめても、肌と肌が密着し、
二人が溶け合うその瞬間でさえ、心の奥で問い続けている。
私は、この人に、本当に欲されているのだろうか。

その答えを知りたくて、潤んだ眼差しを読み、吐息の湿度を感じ、
喉の奥で震える沈黙の意味まで探ろうとする。
指先が滑る背中の感触、腰に回した腕の力、濡れた先に伝わる脈動
そのすべてが、愛されているかどうかの答えになるはずだと、体が勝手に信じている。

愛とは、不思議なものである。
与える歓びと同じだけ、受け入れられたいという渇きが、容赦なく疼き出す。
認められたい、求められたい、好きに使われたい、
そして、相手の欲望の最も熱い場所に、
自分が確かに埋め込まれていることを、体で確かめずにはいられない。

成熟した大人でさえ、この飢えから自由にはなれない。
いや、大人だからこそ、その飢えを日常に隠し、
唇と唇の隙間に忍ばせる術を覚えただけなのかもしれない。

エロスは、その弱さを容赦なく暴く。
裸になるのは身体だけではない。
誰にも見せたくなかった幼くて卑しい願いが、
快楽という媚薬に誘われて、汗が滲む肌の上へ、
静かに、しかしはっきりと浮かび上がる。

だから愛は、対等な契約では終わらない。
二つの孤独が、互いの欠落を抱き寄せ、
震えながら、喘ぎながら、確かめ合う営みなのである。
そこには、支配する者も、支配される者もいない。
あるのは、愛されたいという切実な願いを、陰部の疼きと一緒に抱えながら、
それでもなお相手を求め続け、脚を絡ませ腰をくねらせ、
唇を貪る、一人の男と、一人の女だけだ。

私は、その危うさこそがエロスの本質だと思う。
満たされているから抱き合うのではない。
満たされることのない渇きがあるからこそ、
人は何度でも唇を重ね、舌を絡め、肌を重ね、奥深くで心を重ねようとする。

愛とは完成ではない。
永遠に満たされることのない飢えを、淫らで美しいものとして、
震えながら抱きしめる勇気なのである。

 

キュレーター紹介

逝かせ縄という妙技を操り、多くの女性を快楽の果てと誘う。東京と名古屋に道場を持ち、日本古来の文化である美しい緊縛を多くの生徒に伝承している。美しくなければ緊縛ではない美しい緊縛は気持ちがいい、それは肉体と精神と性が解放されることだ。

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