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はじめまして、千萬子です

はじめまして

喜多先生の道場で受け手をさせて頂いております、千萬子と申します。

不思議なご縁をいただいてからトントンとお話が進み、こうして記事を書かせていただく運びになりましたが、よくよく考えると喜多道場の門を叩いてまだ一ヶ月も経っていないのです。
思えば、「全部夢だったんだよ」と言われてもなるほどそうかと納得してしまえるような約一ヶ月でした。

なんとなしに応募した受け手のバイト。合わないと思ったら謝って帰ればいいのだと自分に言い聞かせ道場を訪れました。
 まさかその約三時間後に「私がここに来ることは必然だったのだ」と確信するなんて。

人生とは不思議なもので、ここが私のターニングポイントと意気込んだ場所であっさり転んだり、逆になにも考えず訪れた場所で人生を変えてしまうような出会いがあったり…
それを人は「運命」と呼ぶのでしょうが…
なんとなく私は運命という言葉より、緊縛に出会い、喜多道場を訪れたことは「宿命」と呼ぶ方が似つかわしいように思います。

 

そう、私が喜多道場を訪れた理由。それは、女としての宿命に由来するのではないかと、縛って頂いた日の真夜にふと考えました。

女は、命を産みます。生命をこの世に誕生させるのです。しかし、命を産み出すということは同じ数だけ死を受け入れるということです。生があれば死があるというのと同じくらい当たり前に、死があるから生があります。死によって産み出すこと。この暗い死の影こそが全女の持つ宿命である、というのが私の昔からの見解です。

さて、私個人の意見ですが、緊縛によって「逝く」と言うのは非常に死に近い状態なのではないかと思うのです。
身体の自由が効かない状態にあるにも関わらず、心と身体の奥はこれでもかと言うほど自由になる。本物の死をどう定義するかにもよりますが、初めて縛っていただいた夜、「これが死ぬということ」と帰りの電車で何度も反復しました。
そして、この緊縛による「死」もまた、産み出すための「死」です。
私の考えていた「女の宿命」というものがこんなにも鮮やかに再現されたのだ、と感動を覚えました。

「必然的に辿り着いた場所」

そう言ってしまうのも無理ない…と、ここまで読んでいただければ解っていただけるのではないかと…思ったり笑

これから受け手をさせていただくなかで、もっと深く、もっと自由に、この濃密で奥深い世界を覗いてみたいです。






 

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