瘋癲ノ喜多サン

絶望のスタイル

誰にも注目されないで、
評価もされず、頼りにもされず、まるでこの世に存在していないかのように扱われる。
それは、単なる孤独ではない
絶望のスタイルだ。

人が人であることの根底を揺るがすもの
それを絶望と呼ぶ。

悪口を言われることは、まだましだ。
嫌われることも、怒りを買うことも、借金に追われることさえ、
ある意味では人と繋がっている証拠だ。

だが、無視されることは違う。
そこには、自分という存在の完全な無がある。

それでも、人は自分とは何かを考え続ける。
けれど、どれだけ考えを巡らせても、
自分一人の思考だけで自己を確立することなどできない。

結局、人の記憶に、視線に、言葉に、そして感情に、
自分の存在が何らかの形で刻まれなければ、
この世に自分はいないのと同じなのだ。

美しさ、艶やかさ、性的な魅力。
それらは、良くも悪くも他者の視線を引きつける。
肉体が放つ刺激は、意識の深層にまで届く。
見られる存在である限り、
世界と繋がっている。
だからこそ、エロティックなスタイルは絶望しないんだ、

それは、社会的価値の話ではない。
倫理や品位の問題でもない。
見られているという事実がある限り、
その人は誰かの記憶に、誰かの心に生きている。
たとえ表面的であっても、それはまだ存在の証明なのだ。

見られる者と、見られない者。
その境界は残酷で、あまりにも深い。

世界から無視され、必要とされず、記憶にも残らない。
そうなったとき、人は静かに崩れていく、誰にも気づかれないままに。

絶望とは、沈黙の中で消えていく存在のスタイルなんだ。
もっといやらしく、もっとふしだらに、もっと下品に、
性を貪り快楽に酔いしれるさまを人の記憶に刻み込むんだ。
絶望する前に、

 

キュレーター紹介

逝かせ縄という妙技を操り、多くの女性を快楽の果てと誘う。東京と名古屋に道場を持ち、日本古来の文化である美しい緊縛を多くの生徒に伝承している。美しくなければ緊縛ではない美しい緊縛は気持ちがいい、それは肉体と精神と性が解放されることだ。

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