身悶えするエクスタシー
エクスタシー。
それは、自分でありながら、自分でなくなる瞬間。
わたしが、静かに崩れていくあの感覚。
人はそれを求めて、いくつもの方法を選ぶ。
着飾る。化粧をする。仮面をつける。
恋に狂い、正気の境界を越えたふりをする。
あるいは、意識を濁らせる何かに身を委ねて、別の存在へと滑り落ちていく。
閉ざされた空間に身を置き、現実を遠ざける者もいる。
外界を遮断し、内側だけを濃くすることで、
ここではないどこかへ行こうとする。
けれどもうひとつの道もある。
すべてを剥ぎ取るという道だ。
飾りも、言い訳も、積み重ねてきた役割も。
他の人の視線を気にした振る舞いも。
最後には、恥じらいすら手放して、ただ在るものとして立つ。
隠していた部分までもさらけ出し、
何者でもない自分に触れてしまう。
私たちは、ずっと勘違いをしている。
いま自分だと思っているその像も、
自分の考えだと信じているその言葉も、
多くはどこかで受け取ったものの寄せ集めに過ぎない。
この文章を書いている存在でさえ、例外ではない。
誰かの影響をなぞり、どこかの言葉を借りている。
純粋に最初から持っていたものなど、
おそらく感情くらいのものだろう。
怒り、欲望、快、不快。
理屈よりも先に立ち上がる、原始的な反応。
それだけが、削ぎ落としてもなお残る核なのかもしれない。
だから人は、憧れる。
自分ではない何かへ。
整えられた理性の顔に、ふと嫌気が差したとき、
もう一人の自分の感情の側に引きずり出されることを望む。
変わりたいのではない。
むしろ、剥がれたいのだ。
貼り付けてきた、らしさから。
エクスタシーとは、その瞬間に訪れる。
境界が曖昧になり、理性が手を離し、
感情が表層に浮かび上がってくるとき。
そこには、きれいに整えられた自分はいない。
羞恥も、抑制も、役割も溶けて、
ただ反応する存在だけが残る。
身悶えするほどの快感は、
何かを得たときではなく、
何かを手放しきったときに訪れるのかもしれない。
エクスタシー。
それは、別の何かになることではなく、
余計なものを削ぎ落とし続けた果てに触れてしまう、
あまりにもむき出しの自分なのだ。
キュレーター紹介
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