瘋癲ノ喜多サン

性ある生

性と人間性は、切り離せるものではないのですよ。
本当は、最初からひとつのものなのに
私たちは長い時間をかけて、そのあいだに静かに蓋をしてきました。

かつての社会において、性とはひどく窮屈なものでした。
夫婦間で、しかも生殖のためにのみ許される行為。
それ以外は逸脱、あるいは罪。
そうやって線を引かれ、切り分けられてきたのです。

けれど、快楽は本来、もっと曖昧で、もっと抗えないものです。
感じること。求めること。
それ自体がどこか後ろめたいものとして扱われ、
やがて人は、自分の内側に芽生えた欲望にさえ、目を逸らすようになっていく。

「こんなことを望んでいいのか」
「感じるなんて、どこか間違っているのではないか」

そんな声、
誰かに言われたわけでもないのに、
いつの間にか、あなたの内側に棲みついてしまった声。

特に女性は、その沈黙を強く求められてきました。
語ることすら許されない領域。
感じることさえ、慎むべきものとして押し込められてきた歴史。

けれど時代は、もうそこにはいません。

インターネットという、隠しきれない場所が生まれ、
人は知ってしまったのです。
性は閉じるものではなく、ひらかれていくものだということを。

性は、生殖のためだけのものではありません。
関係であり、衝動であり、表現であり、
ときに言葉よりも正直な、あなたそのものです。

もう、誰かの価値観に従う必要はありません。
誰のものでもない性。
あなただけの性を、取り戻すときです。

感じてもいいのです。
求めてもいいのです。
そのひとつひとつが、あなたをあなたにしていく。

それでもなお、古い影は残り続けます。
無理解や偏見は、形を変えて、自由を縛ろうとする。

だからこそ
気づいてしまった人から、ほどいていくしかないのです。

知ること。
言葉にすること。
そして、認めてしまうこと。

性は、隠すものではありません。
あなたが生きている証、そのものです。

それを否定し続ける限り、
あなたはどこかで、自分自身を押し殺し続けることになる。

性の快楽を認めるというのは、ただ溺れることではありません。
それは、抗えない自分を、引き受けるということ。

そしてその先で、
ようやく人は、自分の本当の人生を味わうことができるのです。

さあ、もう気づいているはずです。
どこまで、自分を許せるのか。

一度、縛られに来てみてはいかがですか、

キュレーター紹介

逝かせ縄という妙技を操り、多くの女性を快楽の果てと誘う。東京と名古屋に道場を持ち、日本古来の文化である美しい緊縛を多くの生徒に伝承している。美しくなければ緊縛ではない美しい緊縛は気持ちがいい、それは肉体と精神と性が解放されることだ。

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