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美を繋ぐ



全ての愛、善、完全、完璧、森羅万象、神聖、信仰などを “美しい”と訳す事が出来るそうです。


私にとっての緊縛は、麻縄の肌触りと全身の拘束、肌への食い込みで、それは直接、官能に繋がる憧れでした。
実際に緊縛に携わるようになって、手錠や革のハーネスと緊縛が異なるのは、緊縛が拘束以上の意味を持つところだと気づきました。
他の拘束具ではダメなのです。 

緊縛は見て、受けて、美しいと感じるのです。

私にとって緊縛には2つ楽しみ方があります。
「する緊縛」と「観る緊縛」。
受け取るものはそれぞれ違い、どちらも私はちゃんと当事者です。
全体のバランスや手技、自分以外の緊縛を受けるモデルさんの世界は、LIVEなどを観ることでしか得られない物です。


考えてみると私は美しいという言葉を非の打ち所のない完璧である、
という意味合いで使う事が多い様です。

ただし、日本的な美しさには侘び寂びに見られる様に
華美だけではなく機能的で質素、また自然体に近い状態であること、
突き詰めるほどに個への名声は埋没し、
我欲や個人の利益を超えたところで地の習慣や文化を吸収・融合し、少しづつ形を変えながら不動/不老不死として後世に伝わる様式となること、
洗練として確かな技術と、その担い手のプライドを垣間見ること
自らの定めた基準に誠実であるために自身を律し清らかさを保ち続けること、など
他国には見ない独特の意味合いがあると思います。


先生は緊縛が日本独特の文化であると言います。


喜多征一先生の緊縛では、技術面での完璧なパフォーマンスを超えて、
祈りや断罪と赦し、物語、責めから漂う色香と昇華、そして羽化する瞬間を見る事ができます。
ステージ上のモデルさん達は先生の縄を受けながら、
儚げで被虐的であると同時に、しなやかに気高く輝いて見えます。

それもまた美しいと言えるのだと思います。

これらをARTと言うのだと考えますが、
私は全てのARTが絶対的に美しいわけではないと思っています。

私の考えるARTは、
無意識の原風景への思慕や、多くの芸術の中にある生命の炎が燃えるような
巨大なエネルギーや情動の煌めきを自分の内に取り込み、それを再錬成して表現したものであり、

アーティストとは、それを思い通りに正しく出力できる才能を持つ人のことだと思います。

そうやって表現された物が美しいと感じられるのは、
製作者のチカラによるところが大きいのだと思います。


ARTと括られる物の中に自然と同じくらい多く”婦人“が題材として取り扱われているのも、
ある意味でそれが原始的に感情を揺さぶる存在だからなのだと思います。
代わりに女性個人の本質的な美しさを引き出すのはとても難しいのだと思います。

ARTが1人のアーティストのフィルターを通して世界の真理を覗くことだとしたら、

先生の緊縛である色彩鮮やかな麻縄、重厚な縛りと重力を無視しない厳しい吊り、
完全なシンメトリー、または左右の対称に重きをおかず完璧にコントロールされる重心とバランスによる魅惑の床の縄、
そして女の性を最大限に引き摺り出す技術は、
そこに表現される感性や人生観、先生の美そのものに触れることだと思うのです。

私は素晴らしいARTに触れると打ちのめされ、
その衝撃を自分の中で消化しなければ身動きが取れなくなります。


緊縛の美しさは、どこへ繋がっていくのでしょうか、

先生が繋ぐ緊縛の先には
際限なく極めていく事ができる人間そのものの美麗や、性の解放による幸福が表現されていると思っています。
先生もまた“先生の先生”から継いだものを誠実に繋いでいるのだと思います。

https://smluxury.jp/news/post_2235.html
https://smluxury.jp/news/post_449.html


2025年1月は、そのようなことを考えて 頭がパンクしたお正月でした。

ぜひ一度LIVEをご覧下さい。
そこで美しいと感じたら触れてみて下さい。

直近LIVE情報 ➡️ 2月8日(土) <第10回心縛美実演https://smluxury.jp/news/post_2236.html












 

キュレーター紹介

昼は保健室の先生をしています。緊縛という選択があなたの中にありますように

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